最近のトラックバック

児童読みもの

課題図書を読む『クニマスは生きていた!』

 あっというまに7月。もう、図書館の課題本は子どもたちへ。ということで、今年はこの作品で最後です。

クニマスは生きていた!
 池田まき子作
 汐文社

     

 秋田県にある、日本で最も深い湖、田沢湖。かつては、そのの美しさから「神秘の湖」と呼ばれ、20種類以上の魚が生息していた。だが、1940年の戦時、国を強化する国策により、水力発電と灌漑のためのダム湖となり、玉川の水を引き入れることになった。玉川は、玉川温泉からの強い酸性の水が流れ込むため「毒水」と呼ばれる酸性水だった。田沢湖の魚はほとんど死滅し、「死の湖」となる。世界中で田沢湖にしか生息していなかったクニマスもまた、生態も習性も解明されていないまま、姿を消した。
 だが、2010年、山梨県の西湖で、クニマスがみつかる。

 クニマスと田沢湖の歴史を、最後のクニマス猟師、三浦久兵衛さんの生涯を中心にして表した作品。とにかくたくさんの情報が盛り込まれている。人名、数値を正確に明記し、資料写真もある。ほぼ時系列で進むが、ときどき時間が前後し、江戸時代の記録や湖の辰子姫伝説まで差しはさんまれているので、歴史的、地理的な感覚が劣る私は、ときどき迷子になり、読むのに時間がかかってしまった。予備知識のないものが読めるよう、専門的なことを丁寧に説明してくれているのはありがたいが、その量が多岐にわたり、しかも多いので、読み物としては、焦点がぼやけてしまった感がある。

 テーマは、作者が「はじめに」で書いているように、「人と野生生物との共存」。

 作品の軸である三浦久兵衛さんの生涯は、8歳(1930年)からはじまる。三浦家は、さかのぼると江戸時代、十代以上前からクニマス漁をしてきた、言わば、クニマス漁師の名家だ。そのため、家に古い文献、書簡が保存されていた。さらに、祖父は漁業組合の理事もしており、人工ふ化に関わっていた。それが久兵衛さんの代になって、漁場の「ホリ」を発電所に渡すことになり、廃業せざるを得なくなった。その口惜しさ、クニマス猟師としての誇りが、久兵衛さんを突き動かし、家に残る資料をもとにクニマス探しが始まり、人々にクニマスが知られるようになる。
 
 この久兵衛さんの物語を進めるうえで、当然、二つのことが絡んでくる。ひとつは、クニマスの絶滅と再発見までの経緯。もうひとつは、田沢湖の変遷と今後だ。

 田沢湖で絶滅したはずのクニマスが、遠く離れた西湖にいたのは、実は、人工ふ化卵の分譲という人為的な行為からだった。その分譲は祖父の代1935年に行われており、そこからなんと75年の期間をえて発見されるのは、本当に驚くべき奇跡である。
 だが、ひねくれた見方をすれば、人為的な行為により絶滅させらたクニマスが、人為的な行為で命を繋いだということになる。人工ふ化と分譲は、クニマスに希少価値があるから行われた。人を豊かにするための人為的行為だ。でも、繁殖しにくいクニマスは、西湖の生態系を(おそらく)壊すことなく、喝采して迎えられた。
 一方で、田沢湖のダム建設も、戦争という背景があるもののやはり、人を豊かにするための人為的行為のはずだった。電気が必要だったし、玉川の水をひいても湖の水で薄めれば何の影響もないと役人たちは考えていた。だが、結果として、田沢湖を死の湖にしてしまった。
 ここに、自然に影響を及ぼす人の身勝手さと責任を感じる。人は、より豊かに生きるために自然を都合よく変えてきたし、これからもそうするだろう。でも、そのやり方によって、良い結果も、悪い結果も生まれる。この地球で人がいつまでも豊かに暮らせるかどうか、人の叡智が試されているのだ。

 くずれた生態系が、巡り巡って、人に脅威を与えるようになって、人ははじめて、生態系、生物多様性の大切さに気づいた。「人と野生生物との共存」は、きれいに聞こえるけれど、やはり人が中心だ。あくまでも人の未来永劫の生存のために、どうバランスをとっていくのか、なのだ。作品を読んで、そんなことを考えた。

*第64回青少年読書感想文全国コンクール 小学校高学年の部 課題図書

課題図書を読む『太陽と月の大地』

 表紙、見返しの絵が美しい本。スペインのほんの短い期間を描いた歴史ものだが、「はじめに」と「あとがき」に歴史的背景が解説してあるので、知識がなくても読める。ただ、地理的な感覚がつかめないのと、やたらと長い名前が出てきて、読むのに苦労した。本文が156ページと短いなかに、たくさんの物語が詰め込まれているせいかもしれない。

太陽と月の大地 (世界傑作童話シリーズ)
 コンチャ・ロペス=ナルバエス文
 宇野和美訳
 松本里美絵
 福音館書店

     

 1492年、スペインでは、カトリックの王であるイサベル女王とフェルナンド王が、アラブ人のイスラム王朝が支配していたグラナダを制圧し、スペインを支配した。初めイスラム教徒は、キリスト教徒と共存できたが、1502年より、キリスト教に改宗しなければ国を去るよう勅令が下る。改宗したイスラム教徒は「モリスコ」と呼ばれた(イスラム教徒は「モーロ」)。さらに1526年にはアラビア語、アラビアの生活様式の禁止令がでて、1567年にはモーロの習慣が禁止された。1567年モリスコたちは王をたてて蜂起を決心。1568年12月に始まった反乱は2年以上続いて鎮圧され、1609年にはモリスコの国外追放令が出た。
 
 この作品は、最終章の手紙をのぞいて、1566年春から、おそらくは1571年の9月末まで。グラナダの地にずっと暮らしてきたモリスコの家族と、その地をおさめるキリスト教徒の伯爵家――両家が悲惨な争いに翻弄されていく様を、モリコスの若者エルナンドと伯爵の娘マリアの悲恋を中心に描いている。
 二つの家族は、領主・領民の立場の違いがあるものの友好関係で結ばれていた。特に祖父ディエゴが少年のころは、互いの宗教と風習を尊重し合っていた。老いたディエゴが切なく思い出すのは、伯爵家ゴンサロ少年と過ごした無邪気な時間だ。シエラネバダの山に登ってアフリカの海岸を二人並んで見る場面は美しい。キリスト教とイスラム教の狭間にあるその地に、立場が反対の二人が、唯一無二の友として立つのだ。二人はたがいに、宗教、人種、身分の関係ない、ひとりの人間と人間として向き合っている。
 エルナンドとマリアも、そうしたわけ隔てのない幼馴染だったが、年頃になり、互いに恋心を抱くようになる。伯爵の娘マリアは素直な気持ちをままでいられたが、モリスコとして苦渋を味わうエルナンドは、キリスト教徒たちに支配された恨みや悲しみに打ちひしがれてしまう。

 イスラム教とキリスト教が対立するなか、それぞれの側で、人々の気持ちは一応ではない。異教徒を徹底的に排除したいもの、宗教にかかわりのなく人間として相手を見るもの。伯爵はモリスコがこっそりイスラム教の儀式をするのに寛容だが、伯爵の息子でマリアの兄イニゴは、モリスコを疑い、危険だと感じている。エルナンドの兄ミゲルは、キリスト教徒と傷害事件を起こして逃げ、反乱軍に参加しながらも、罪のないキリスト教徒たちを逃そうとする。エルナンドのように、反乱に参加しないイスラム教徒もいる。
 だが、時の流れは容赦なく、その土地の人々を呑みこんでいく。この戦いでエルナンドの一家にも、伯爵家にも死者がでた。多くの人が無駄に亡くなり、幸せを奪われる。この無慈悲な戦いを見ていると、なぜ、争わなければならなかったのかと思う。ディエゴ少年とゴンサロ少年のように、共存する道もあるはずなのに。支配欲、権力を脅かされる恐れ。そんな人間の愚かさ弱さが、悲しい戦いを生み出す。
 この愚かな戦いは、今も世界中で繰り返されている。人をひとりの人間として見た時、宗教や人種、文化、風習の違いなど、とるに足らない違いで尊重し合えるはずなのになぜ?と思う。

 ところで作中には、サンフアンの夜やラマダーンの儀式が描かれ、グラナダに残る恋の伝説が挿入されている。血なまぐさい戦いの物語のなかに、異国情緒あふれるロマンチックな香りがふっと漂い、読者をひととき楽しませてくれる。

 表題の「太陽と月の大地」は、作中に出てくる魔女が、エルナンドとマリアの将来を予言し、そのなかで「太陽はキリスト教徒の味方」「モーロに寄りそう月」とつぶやいたことからわかるように、キリスト教徒とイスラム教徒を暗示している。グラナダは二つの宗教が交わる大地だ。
 魔女は、太陽の強い日差しが月の光を隠すという。でも、太陽と月はいつも、空に共存しているのだ。
 
*第64回青少年読書感想文全国コンクール 中学校の部 課題図書

課題図書を読む『きみ、なにがすき?』

 絵本から本への綱渡しにぴったりとなる作品。作者のはせがわさとみさんは、たくさんの絵本作家を輩出している「あとさき塾」出身なのですね。

きみ、なにがすき?
 はせがわさとみ作
 あかね書房

     

 森の奥に住むあなぐまは、庭の草を抜いて畑をつくろうと思い立つ。

  くさぬくよ ほい
  いらないくさ ほい
  くさをぬいたら
  ぼくのはたけ   (p7)

 と歌いながら、なかよしのこぶたが好きなジャガイモをつくろうと思いつく。さっそく種イモを買いに行くと、途中でこぶたにばったり。こぶたは自分の畑でとれたじゃがいもをあなぐまの家に持ってくるところだった。じゃあ、じゃがいもはつくらなくていい。そこで、あなぐまは、家に帰って草をぬきながら考えた。そうだ、りすのの大好きなりんごの木を植えよう。そこで、りんごの苗を買いに出かけると、今度は、りすに出会う。りすは自分の家の裏庭でとれたりんごをあなぐまに持ってくるところだった。じゃあ、りんごの木はもう植えなくていい。それなら……。あなぐまは、うさぎの好きな人参、はりねずみの好きなきいちごと、畑で育てるものを考えるけれど、ことごとく、自分が作るまでもないと分って、とうとう、怒り出す。

 大好きな友だちを喜ばそうと張り切ったのに空回り。喜ばすつもりが、いつのまにか、腹をたてて八つ当たりして、いじけてしまう。そんなつもりじゃなかったのに……。子どもの心に寄り添った、なんてかわいらしいおはなしだろう。やさしい色使いの絵も、ほのぼのとかわいらしい、このお話にぴったりだ。

 いいことを思いついたあなぐまが家を出て、こぶた、りす、うさぎ、はりねずみと出会う。この繰り返しで話が進んでいく。読む者は、先が容易に予測でき、あなぐまの気持ちが、嬉しさと落胆に、大きくアップダウンするのがおかしくてかわいい。一方で、あなぐまの気持ちには、焦りが少しずつまじりはじめ、出会うタイミングも早くなり加速して、あなぐまが怒りを爆発させるクライマックスに向かう。この変化が面白く、一層楽しく読める。

 友だちが大好きなこぶたが、庭につくったものは……。だれもが納得して、いいなあと思えるラストが素敵だ。

*第64回青少年読書感想文全国コンクール 小学校低学年の部 課題図書

課題図書を読む『最後のオオカミ』

 課題図書に選ばれない年が珍しいんじゃないかと思えるぐらい、よく選ばれているマイケル・モーパーゴ。歴史が絡む作品が多いせいでしょうか? 本作は、ロンドンの国立美術館テート・ブリテン付きの作家である(このことを、私は、この本のあとがきで初めて知りました)彼が、美術館の絵の1点にまつわる物語をと頼まれて書いた作品だそうです。

最後のオオカミ (文研ブックランド)
 マイケル・モーパーゴ作
 はら るい訳
 文研出版

     

 肺炎をこじらせ、家で安静治療をしているマイケル・マクロードは、孫娘から教わりながら、パソコンで自分の家のルーツ調査を始める。
 スコットランド人である父方の家系をさぐるうち、アメリカに住む女性マリアンからメールが届く。マイケルとマリアンは遠縁のいとこで、ふたりの祖先は、1700年代、スコットランド北部インバネス州にいたロビー・マクロードだろうというのだ。さらに彼女は、祖先ロビーの遺言書をみつけてスキャンしたから、送信してくれるという。送られた遺言書には、ロビーの驚くべき一生が物語られていた。

 ロビーは幼くして父母を失い、インバネス州の叔父に引き取られる。だが、ひどい扱いをうけ12歳のとき逃げ出し、物乞いや盗みで飢えをしのいだ。ある日、子どものいない親切な夫婦に引き取られ、実子のようにかわいがってもらう。3年の幸せな時を過ぎたあと、チャールズ王子ひきうるスコットランド軍が、イングランドめざして挙兵した。ロビーと養父は、養母の反対を押し切って入隊。カロデン・ムアでの戦いで養父は銃に撃たれて死亡する。ロビーは家に逃げ帰ったが、養母もイギリス軍に殺されていた。反乱軍兵士としてイギリス兵に追われる身となったロビーは、スコットランド高地へ逃げこんだ。
 逃げまどうなか、ロビーは、「スコットランド最後のオオカミ/この石の近くで射殺される/一七四六年四月二十四日」と印された石をみつける。その近くには、オオカミの子どもがいた。ロビーは、そのオオカミの子をチャーリーと名付け、ともに逃亡生活を続ける。
 ロビーは、チャーリーが大きくなってからは、猟犬に見えるように毛をかって連れて歩いた。そして、エジンバラに出て、仕事をみつける。だがイギリス兵も大勢いたので、目立たないように気をつけた。
 ある夜、港を散歩しているロビーとチャーリーに、アメリカへ渡らないかと、ペリカン号の船長が話しかけてきた。船長はロビーがイギリス兵に追われていること、チャーリーが実はオオカミであることを、はっきりと口にしないが見抜いていた。ロビーは船長に身をゆだねることにする――。

 かなり大きな文字でたった約80ページの遺言の手記に、ロビーの波乱万丈な人生がおさまっている。そのため、物語の展開がものすごく速い。出来事だけを追ってどんどん読み進める。
 イギリス兵を逃れて多くのスコットランド人がアメリカへ逃げた歴史、オオカミの子の成長とロビーとの気持ちの交流、新天地での自由、ルーツ探し……短いページに、ぎっしり詰め込まれているが、そのすべてが、ざっくりしている。読者によって興味を持つ対象は違うだろうが、興味のその先のへと進む入口となる作品となるかもしれない。
 ただ、やはり、ダイジェスト版のような読後感で、もっとみっちり書かれた物語で読みたかったと思ってしまう。日本の小学生たちは、おそらく歴史的背景になじみのないだろうが、この作品をどう読むだろうか?

*第64回青少年読書感想文全国コンクール 小学校中学年の部 課題図書

課題図書を読む『一〇五度』

 私の心にかちっとはまった作品でした。作者は佐藤まどかさん、ほかの作品も絶対読まなくては……。

一〇五度
 佐藤まどか作
 あすなろ書房

     

 大木戸真の家族は、体が不自由で一人暮らしとなった祖父と暮らすために引越し、真は、中三の始業式から中高一貫校に編入した。真の祖父はかつてイス職人をしており、その影響からなのか、真も椅子のデザインに魅せられていた。
 同じ学年に、ひとりだけスラックスをはく女生徒、早川梨々がいた。梨々の祖父は、椅子業界では有名な会社の創業者で、モデラー(デザインされた設計図をもとに形にする職人)だった。梨々も将来はイスのモデラーになりたいと思っていた。
 ふたりは学校図書館の本『イスのデザインミュージアム』や、紳士服店にディスプレイされた骨董品の寝椅子を巡って会話をかわし、意気投合。7月に行われる「全国学生チェアデザインコンぺ」に、真がデザイナー、梨々がモデラーとしてチームを組み、参加することにする。

 コンペの結果が発表されるまでの過程をストーリーラインに、進路の悩み、立ちふさがる親の壁が描かれる。中高生がイスに興味をもつことはあまり一般的ではないが、進路に悩み、親と衝突するのは、多かれ少なかれ誰でもあるから、とても共感して読める。
 真も梨々も、将来の夢を親に反対されている。真は父親の一流企業願望により、梨々は女にはモデラーは無理という理由で。子どもに苦労をさせたくない親心だが、子どもには、うっとおしい枷だ。
 とくに真の父親は極端でひどい。真が一流大学(T大、K大としてあるのは、東京大学と慶応大学だろうか?)へ進学することを望み、デザインやアートといったクリエイティブな仕事に進むのは許さない。デザイン画を描くことさえ許さず、テストの成績をあげることだけに集中させようとする。年齢の低いうちは真も父親に従い、父親のために猛勉強して成績をあげたが、次第に父親の望む将来が、自分の望むものではないとわかってきた。だが、身長185cm、高校でラグビー部主将だった父親は、体格的にも精神的にも巨大な壁だ。真は少しずつ声をだし、父親にくってかかり、自分の思いをぶつけていく。壁をぶち破る日は近いうちに必ず来るだろう。
 しかし、この作品は、ただ夢に向かって突き進めと無責任に後押しするではない。デザイナーとしての成功者、失敗者の話を載せ、厳しい現実――才能と努力だけではどうにもならない業界であることを、真と読者にしっかり見せる。また、イス職人だった祖父の言葉は考えさせられる。職人としての誇りを保ちながら、時代の流れを乗り越えた苦労人の言葉だからこそ、重みがあり、納得させられる。こうして多方面から光を当てたうえで、さあ、自分の進路を決めるのはあなたですよと励ましている。

 タイトルの「一〇五度」は、真と梨々が製作するイス原寸模型の背もたれの角度だ。まっすぐ座るのではなく、少しリラックスする角度で、パソコン用や会議用によいとされる角度らしい。祖父がいうように、「軽く寄りかかるのにいいあんばい」で、それは人と人が互いに寄りかかりすぎずに、頼り頼られる絶妙な角度なのだ。コンペに出す椅子の原寸模型をつくる過程で、真は、背もたれだけでなく、梨々や、関わる人との一〇五度の関係を体得していく。病弱で両親に甘やかされる弟、力への真の気持ちの変化も、一〇五度の体得から生まれた来たのだろう。

 ところで、梨々は制服のスカートではなくスラックスをはいて登場する。私は、この作品も、最近テーマにされやすいLGBTやいじめの問題を含むと思って読み始めたのだが、そのあたり、真と梨々は突き抜けていた。イスに熱中するふたりに、男女の隔たりはみじんもない。同級生の偏見などとるにたらないことで、一瞬にして吹きとばしてしえるのだ。
 真と梨々は、デザイナーとモデラー、ひとりの人間と人間として、立っている。一〇五度のちょうどいい角度で寄りかかりながら。こうしたふたりが互いに刺激しあい、前をむいていく姿はすがすがしく、とても読み心地がよかった。

 作者は、イタリアでプロダクトデザイナーとして活躍しながら、児童書を書くという才能あふれる人だ。デザイン業界に身をおく彼女が、その知識と体験を、一般的な若者が共感できる物語の構成に、巧みに織りこんで書いている。そのため、デザインに関心のなかった読み手も、すんなり知識をえて理解でき、そのまま物語に没頭していける。私は「プロダクトデザイン」や「インダストリアルデザイン」があることをはじめ、さまざまなことを知り、好奇心をかきたてられながら、物語に入り込み、ラストでは感動で胸がいっぱいになった。

 進路に迷う人、そもそもやりたいことがない人、進路を決めた人、子どもを心配する親、
自分の生き方はこれでいいかと悩む人。すべての人に得られるところが多い本だと思う。中学生だけでなく高校生にも読んでもらいたい。

*第64回青少年読書感想文全国コンクール 中学校の部 課題図書

課題図書を読む『こんぴら狗』

 巻末には参考文献が細かな字でびっしり。あとがきによれば、この作品にとりりかかった時1歳だった作者の飼い犬が、完成時には6歳になったという。5年の月日を費やして、きっちりと調べあげて書いた作者の情熱が感じられる。

こんぴら狗 (くもんの児童文学)
 今井恭子作
 いぬんこ画
 くもん出版

     

 文政3年(1820年)、江戸の線香問屋の12歳の娘、弥生は、生まれてすぐに捨てられた子犬を拾い、ムツキと名付ける。ムツキは瀕死の状態だったが、弥生の手厚い看護で命をとりとめ、元気になり、弥生になついた。
 3年後、弥生の兄が病死し、そのあと弥生も風邪をひいてから病に伏せるようになった。心配した両親は神さまにおすがりするしかないと、ムツキをこんぴら狗の旅に出すことにする。
 こんぴら狗とは、讃岐の金毘羅さんへ飼い主に代わって参拝にいく犬のこと。木札に飼い主の氏名や住所を書き、初穂料や道中の餌代の入った銭袋を首にさげて、旅人から旅人へと託されて、金毘羅参詣へいき、お札をもらって帰ってくるのだ。この作品はフィクションだが、こんぴら狗がいたは本当らしい。
 はじめムツキは、知り合い瀬戸物問屋の隠居の京見物についていき、京都から、商人などの旅人に託される予定だった。出会う人たちは、ムツキがこんぴら狗と知るとたいてい、ありがたがり、手助けした。箱根の関所では相好をくずした役人から「気をつけていけ」と声をかけられる。大井川の渡しではムツキが輦台からおちるとうハプニングもあったが、順調に進んでいった。だが、伊勢湾を渡る船が大雨に会い、ご隠居が風邪をひいてから、ムツキの旅に暗雲がただよいはじめる。

 江戸から東海道をくだり京都へ。さらに大阪から四国へと、犬が旅する。もちろん犬には道はわからないし、海も渡らなければならない。参詣の意味も知らない。そんな遠くへ行くのは、いくらなんでも無理でしょうと私は思った。
 だが、江戸時代、科学が進んでいないからこそ、人々の信仰は今では信じられないくらい厚かった。こんぴら狗に託された飼い主の願いをなんとかかなえてあげたいと、見も知らぬ人々がそれぞれのやり方でムツキに力をかす。その人々の情の厚さ、純朴さに驚かされた。

 作品では、ムツキの旅した道のりをたどりながら、当時の人々の暮らしぶりや社会を紹介しつつ、ムツキが出会った人たちの物語の断片で紡ぎついでいく。口達者な偽薬売り、淡い恋をする芸者見習いと水主見習いの少年など、その時代を生きぬいている庶民の姿が生き生きとうきあがってくる。生真面目な役人たちの姿は滑稽だ。こんぴら狗と知りながら、路頭に迷わせては恥と、宿場から宿場への引き継ぎに奮闘し、ついにはムツキを無理やりお籠に乗せて運ぼうとする。
 だが、なんといっても心を打ったのは、伊勢参りから帰る油問屋の母子だ。生まれつき目が不自由な息子の視力回復を祈願する旅で、母は、ムツキと息子の触れ合いを通して、息子の成長を感じ、息子への自分の接し方を考えていく。

 ムツキがどうか使命を果たせますようにと願いながら、次から次へと出会う風物や出来事、人々で、飽きることなく、一気に面白く読める作品。大人にもお薦めだ。

*第64回青少年読書感想文全国コンクール 小学校高学年の部 課題図書

課題図書を読む『奮闘するたすく』

 昨年の夏に読んで、児童文学で介護をユーモラスに、でも、きちんと描いていることに衝撃をうけた本。超高年齢社会で避けては通れないテーマだ。

奮闘するたすく
 まはら三桃作
 講談社

     

 小五の佑は友人の一平とともに、夏休みの研究課題として、デイサービスを見学してレポートするよう、担任の早田先生から宿題をだされる。認知症の症状がではじめた祖父の「デイサービスについていった」と日記に書いたからだ。
 夏休みがはじまり、佑と一平は、デイサービスに行く祖父に付き添った。祖父は、ものわかりのいい時と悪い時があり、介護士に腹をたてたり、素直に従ったり。佑は振り回されっぱなしだ。佑と一平は、初め見学だけだったが、介護士見習いとして手伝いもするようになる。

 老い、認知症、身体障害、介護福祉、外国人労働者、ボランティア、そして死。佑は、祖父や施設を利用する老人たち、介護士と交流するなかで、様々なことを知っていく。高齢者社会の現代にあって避けらないテーマをわかりやすく書いている。
 重いテーマを扱っているが、全体にユーモアがあふれ、とても明るい。自分の死がほど遠く、現実味がない5年生の目を通して描かれているからかもしれない。
 それでも、佑の気持ちは複雑だ。佑の祖父は元刑事。おそらく、規律正しくしっかりした人だっただろう。佑はそんな祖父を尊敬し、誇りにしていたに違いない。それが、認知症になって、明らかに言動がおかしい。祖父自身も意識がはっきりしている時は、自分をふがいなく思い、苛立ち、将来に不安を感じている。弱っていく祖父と、祖父を見つめる佑の気持ちが切ない。たとえば、施設で履く上履き。小学生が学校で履くのと同じで、でかでかと名前が書いてある。プログラムにくみこまれたレクレーションのお遊戯。まるで幼稚園児のようで、祖父はプライドを傷つけられる。
 一方、祖父の身内でない一平の感じ方は、かなりドライで佑と温度差がある。老人たちの、ちぐはぐなふるまいを、単純に驚き、おもしろがり、施設での体験を楽しんでいる。こうした一平の存在は、祐を落ち込ませず、作品の明るさに寄与している。

 老いにともなう認知機能、身体機能の衰えや障害に、周囲はどう接するか? 嘲笑したり、できないことに腹を立てたり、逆に幼い子を扱うように接したり……どうすればいいか戸惑う。ヒントとなる提案をしてくれるのが、インドネシアから介護福祉士になるために勉強にきているリニだ。彼女は、「インドネシアでは老人は尊敬されていて、みんなが世話をしたがる。生きている分かしこくて物知りだ」という。認知症の老人たちを見れば、その言葉に首をかしげずにいられない。でも、刑事だった祖父は、刑事の素養がしみついていて、施設で老人ひとり行方不明になったとき、スタッフに的確な指示を出す。また、大切な妻との大切な思い出を、しっかりと折りたたんでしまっていた。それを言動としてと外に表したとき、佑たちは、はじめ、理解できなかったが……。
「お年寄りのやることには、ちゃんと理由がある」といったベテラン介護士の言葉が心に響く。 いつもはほとんど言葉を発さないのに、カラオケの「瀬戸の花嫁」ではリズミカルにあいの手を入れる老人も、きっとなにかを深く胸に刻みこんでいるのだろう。体験や思い出はみな違う。当たり前のことだが、老人、いや人間は、ひとりひとり尊重される個人なのだ。

 後半のセミの幼虫の孵化にまつわるエピソードは、生死の神秘がともない、とても美しい。セミは、美しい孵化のあと、成虫となり、はかない命を終えていくのだ。でも、それまで懸命に生きている。

 

*第64回青少年読書感想文全国コンクール 小学校高学年の部 課題図書

課題図書を読む『ぼくとベルさん 友だちは発明王』

 タイトルにあるベルさんは、もちろん電話を発明したグラハム・ベルのこと。電話は彼の業績のほんの一部だった。このことを私は恥ずかしながら、この作品ではじめて知った。

ぼくとベルさん 友だちは発明王 (わたしたちの本棚)
 フィリップ・ロイ著
 櫛田理絵訳
 PHP研究所

     

 1908年、カナダ。10歳のエディは、好奇心旺盛で工夫にとみ、算数は得意だが、読み書きがまるっきりできない。そこで、学校では頭が悪いと見なされ、両親からは農夫になるしかないと落胆される。エディは悔しく、悲しい思いをしていた。
 そのころ近所に、ベルさんが帰ってきた。ベルさんは有名な発明王で賢くてみんなから尊敬されている。エディは、近所を歩いていて、ベルさんと出会い、言葉をかわすようになる。ベルさんはエディの鋭い観察力、豊かな発想力や想像力、独自な着眼点、数学的な思考力を見ぬく。
 ある日、ベルさんの家に招待されたエディは、ヘレン・ケラーや、ベルさんと飛行機を作って飛行実験をしている科学者と出会う。こうしたことから、エディは数学に興味を持つようになり、学校にあった難しい応用数学の本を辞書を引きながら懸命に読み、滑車の理論を使って、父親があっというような大仕事をしてみせる。
 だが、読み書きの方はなかなか進歩しなかった。そんなエディをベルさんは励まし続ける。

 ベルや、ベルがサルヴァン先生を紹介したヘレン・ケラー、ベルと飛行実験をした二人の科学者のボールドウィンやマカーディーは実在する。ベルがカナダに家を持っていたのも事実。エディももしかしたら実在すると思って読んだが、巻末に「史実を考慮して書かれたフィクション」とあり、エディは架空だとわかった。それくらいうまくフィクションが史実に溶け込んでいる。読み書きのできない農夫がたくさんいること、エディが左ききなのに右手で字を書くよう学校で厳しく矯正されることなど、当時の時代が反映されている。

 物語では、識字障害を持つ少年エディが、ベルやヘレン・ケラーから、情熱の持つ力、失敗にめげない心や考え方などを学び、成長していく。「できたことは喜ぶ、失敗についてはくよくよしない」(p58)といった、含蓄があるベルの言葉があちこちにちりばめられ、読み手も励まされる。この作品のベルのような、才能あふれる個性的な大人が身近にいて、自分を対等に扱い、励ましてくれたら、子どもたちはどんなに力づけられるだろう。

 エディとベルとの交流は心温まるが、さらに心を揺らすのは、エディが父親に認められていく過程だ。子どもにとって、親に失望されるほど悲しく、親に認められほど嬉しいことはない。
 エディの父親は、賢さを尊んでいる。そして、心から息子を思い、幸せな将来を願っている。だから、息子に読み書きができないとわかった時の失望は大きい。それをエディは敏感に感じとっている。教会に知的障害のある若者がやってきたときの父親の反応をうかがうエディの気持ちが痛々しい。父親は息子の識字障害を悲観するなか、「おまえは生まれ持った能力すべてを使って生きていかにゃならん」(p37)とエディに声をかけている。それは、エディの障害を受け入れる父親自身へかける覚悟の言葉であったかもしれない。だが、こうした父親がいたことも、エディが前進する原動力となっただろう。
 父親が、読み書きで測れない息子の賢さを知り、それをエディに伝える場面は、もっとも感動的だった。エディは「幸せの波が体じゅうをかけぬけた」(p134)と言っている。

 識字障害については、英語が日本語としくみが違うので、日本の子どもたちには分かりにくい。また、ゼノンの逆説や滑車のしくみなど、小学生の子たちには難かしそうだ。でも、それは私が難しいと思うだけで、そうしたことが得意な子には、とても面白く興味深い読み物となるかもしれない。

*第64回青少年読書感想文全国コンクール 小学校高学年の部 課題図書

課題図書を読む『レイナが島にやってきた!』

 今年も、課題図書を読む季節がやってきました。子どもたちが読み始める前に、読破目指して頑張ります!! 今回は3冊すでに読んだことがあり、どれも良い作品だったので、再読したいです。

レイナが島にやってきた!
 長崎夏海作
 いちかわなつこ絵
 理論社

     

 作者が現在住んでいる沖永良部島がおそらく舞台。
 優愛(ゆうあ)の通う島の学校は全校36名。友愛は3、4年生の複式学級にいる。4年生は3人で女子は優愛だけ。ところが、2学期の始業式に女子が転校してくることになり、優愛は初めて同じ学年の女友だちができそうでとても嬉しかった。でも、転校生は初日から遅刻。教室に入らずに、禁止されている学校のガジュマルの木にのぼっていた。
 転校生の名は麗奈。麗奈は、ものすごい早口で、機関銃のように自己紹介し、麗奈は字が難しいのでレイナにすること、神奈川県の児童養護施設から養子になってこの島にきたこと、美しい島に来られて嬉しいことなどを話した。そして、遅刻した理由は、「よんどころのない事情」だという。
「よんどころない」といった聞きなれない言葉を使い、感性豊かに島の自然を感じとり、生き生きとしゃべるレイナは、クラスの子たちをすっかり魅了した。その一方で、レイナは、時に自由気ままで予測がつかず、掃除をせずに家に帰ったりもする。優愛はレイナと心を通わせたいが、レイナと親しく話せなかった。
 そんなある日、レイナが3年生の子をつきとばして泣かせ、謝りもせず早退し、次の日から学校に来なくなった。島から出て行くのではと心配した優愛が、家に行ってみると、レイナは本当に病気だったらしい。でも、もう回復したから、家の仕事をしなければならない、そういうケイヤクでこの家に来たからと言う。レイナはケイヤク子どもなの? 優愛にはわけがわからなかった。

 島の子である優愛にとって、クラスメイトは、1年生から6年生まで、もしかしたら幼稚園から中学校までずっと変わらない。なにも言わなくてもなんとなく気持ちを分かってもらえる、家族みたいな存在だ。そんな慣れ親しんだものだけの世界に、突然、異分子のレイナが飛び込んできた。本土から来ただけでなく、養護施設出身で、個性が強い。優愛は、このレイナという新しい存在に、きらきらするものを感じて魅かれながらも、理解できず戸惑う。
 レイナは自由奔放であっけらかんと明るく見える。だが、作品の後半になって次第にわかってくるのだか、実は不安を抱えている。自分の居場所ができたのを喜び、その場所を愛し、その一方で、決して逃すまいと必死になっている。機関銃のように話すのも自己アピールかもしれない。想像力が豊かなのは、つらい現実からの逃げ場所なのかもしれない。その姿は、美しいプリンスエドワード島にやってきたおしゃべりな「赤毛のアン」とよく似ている。

 居場所があるのが当たり前の優愛と、居場所を求め、新鮮に感じるレイナ。子どもたちは、レイナという異分子を受け入れることで、世界を広げていく。レイナが島の子どもたちの世界に窓をあけたと言えるかもしれない。優愛は、いままで見慣れて気にも留めなかった島の自然を、レイナがみずみずしい言葉で語るのを聞いて、その素晴らしさに気づく。また、気持ちを理解してもらうために、言葉にすることを知る。
 レイナと同じく、島に引っ越してきて、すぐに不登校になったのが、3年生の若葉だ。すっかり出来上がっている仲間の世界に、異分子が入っていくのは、かなりのパワーがいる。島の子たちにそんなつもりはなくても、おとなしい若葉には入るすきがなくて弾き飛ばされてしまったのかもしれない。でも、レイナが来たことで、若葉も力をもらい、島の子たちにも変化があって、良い方向に向かっていきそうだ。
 引っ越し、クラス替えなど、子どもたちにも環境の変化がある。それはストレスであると同時に、自分を広げるチャンスとなる。

 さて、この作品の魅力は、南方の島の自然が、いたるところに描かれているところだ。ガジュマルの木、サトウキビ畑、空に続く海、サンゴの砂……。月桃が咲くと長い梅雨が始まり、ソテツの雄花が咲くころ梅雨が終わると知り、同じ日本でありながら、まったく違うエキゾチックな世界だと感じた。北九州より南へ行ったことがない私。一度行ってみたい。

*第64回青少年読書感想文全国コンクール 小学校中学年の部 課題図書

課題図書を読む『霧のなかの白い犬』

 この作品は、昨年に1度読んだ。そのときは、あちこちに話が飛ぶ前半にほとほとに疲れ、謎が解き明かされる後半で一気に読み終えた、読み応えがあるというより、なぜこれほど複雑に書くのか?と疑問ばかりだった。けれど、再読の今回は、あちこち飛ぶ話題の意味がはじめからわかり、そのつながりも理解でき、メッセージがよりくっきりとした。小学生高学年の課題図書としては、難易度がかなり高い作品だ。

霧のなかの白い犬
 アン・ブース作
 杉田七重訳
 橋甲賢亀絵
 あかね書房

     

 イギリスが舞台。ジェシーの祖母は認知症を発症し入院する。だが、何かに脅えていてひどくとり乱し、飼うことにしていた白い子犬を、ジェシーといとこのフラン、友だちのケイトに世話を頼む。
 ケイトはジェシーの親友で、車いすに乗っている。だが、率直で活発。スポーツも万能でシッティング・バレーボールでは、パラリンピックの出場の可能性があるくらいだ。祖母はこのケイトのことを特に心配し、JMと書いた紙きれを、ジェシーやケイトにお守りにと渡したりする。
 いとこのフランは、両親が離婚して、ジェシーと同じ学校に転校してきた。以前は親切だったが、今は祖母に対してもケイトに対しても思いやりがない。弱いものいじめをする悪い友だちとつきあっていて、生活も荒れている。
 町には外国人労働者が増えていて、人々はあまりいい顔をしていなかった。ジェシーの父親も、外国人労働者が増えたせいで、事業が立ちいかなくなり、持ち家を売り払い、フランスに出稼ぎに行ったのだ。
 ある日、祖母の家に、ドイツから宛名違いの絵葉書が届く。また、祖母の家から、白い犬をつれた少女の写真がみつかる。絵葉書の真の宛先と写真の少女の正体を探っていくうちに、ジェシーは祖母の意外な過去を知る。それは、学校でちょうど学んでいた第2次世界大戦のいまわしい歴史とつながっていた。

 第2次世界大戦の体験を語れる人の数が減ってきた最近では、あの悲劇を繰り返さないために大戦のことを語り継ぐ作品が児童文学でも増えてきたように思う。この作品は、現代の社会問題を描きだして、今があの時代に似てきていないか? 人々の考え方はななにかに踊らされゆがめられていないかか? 何かを思い込まされていないか? 警鐘を鳴らしている。

 ナチスといえば、ユダヤ人の虐殺が第一に頭に浮かぶ。だが、障害者、高齢者も役に立たないものとして抹消されていた。退廃芸術として、ヒットラーの基準にそれた絵画が押収され、音楽が禁じられ、本が焼かれた。雑種犬は嫌われ、黒毛のシェパードのみを真のジャーマン・シェパードとして認められ、ユダヤ人の飼っているペットは殺処分された。

 なぜ、人々はナチスのいいなりになったのか? 信じられないと、今の私たちは思う。ジェシーたちが学校の授業で、ちょび髭のヒットラーの演説のフィルムを見て、「どうしてみんな、こんな人についていこうと思ったのか、わたしにはわけがわからない」と思い、彼の号令で行進する兵士たちの姿を滑稽に思ったように。
 なぜ、こんな理不尽なことが許されたか?の答えを、ジェシーの同級生ベンの祖母が、学校に招かれて授業で語る。ベンの祖母は、ユダヤ系ドイツ人で、強制収容所に入れられたが生き残りだった。彼女の話は子どもたちにショックを与えた。当時のドイツの学校の教科書にとんでもないことが書かれていて、子どもたちはそれを信じていたのだ。ナチスの考えにほんの少しでも反対する人たちは、残酷な仕打ちをされて、人々はナチスの言いなりになるしかなかった。社会はナチスにのみこまれ、人々はその流れにのってしまったのだ。

 現代はどうだろう。こうした負の歴史から学んでいするはずだし、人種差別は否定されているし、言論の自由もあるから大丈夫……本当にそうだろうか? 外国人に対する偏見はないのか? 外国人が起こした犯罪を私たちはどう感じるのか? ヘイトスピーチはなぜされるのか? 私たちはどう感じてるのか? どう考えるのか? その感情や考えはどこからくるのか? 私たちだって、いつ恐ろしい道に誘導されるかもしれないし、知らず知らずもう足を向けてしまっているかもしれない。

 ジェシーは体験を通して偏見に気づいていく。外国人労働者は、ジェシーにとって、父親の事業が失敗させた原因となった人たちでとても好きにはなれない。母や町の人たちも疎ましく思っている。ジェシーの叔母も病院で祖母が外国人より優先してみてもらえないのに憤っていた。新聞にも「不法就労移民」が国民のお金を奪っていると書いてあった。なにか事件が起これば、外国労働者がまず疑われる。でも、父親も出稼ぎ先のフランスでは外国人だ。
 いとこのフランの仲間たちは、おそらく深い考えもなく、障害者や外国人労働者など弱い立場を馬鹿にしてからかう。フランは、自分の考えは違っても、その仲間から外れたくなくて、なんとなく合わせざるをえない。そうした考えのない小さなことからなにが招かれるか、フランは身を持って知っていく。
 こうして作品は、ジェシーとフラン、障害者のケイト、さらにアフガニスタンから亡命してきたヤスミンを通して、読者に社会についての自分との関係を考えさせる。

 また、昔話が、世界を理解させてくれるものとして利用されているのも興味深い。グリム童話が出版される前に語り継がれいた「赤ずきん」、ぞっとするグリム童話の「盗賊の花嫁」が作中で紹介される。ジェシーが学校の宿題で書いた現代のおとぎ話では、子どもの時のおばあちゃんを主人公にして、ナチスに翻弄された当時をわかりやすく描きだしている。『昔話の魔力』の著者ブルーノ・ベッテルハイムの名も出てきて驚かされた。
 昔話がこの世を映しだしているのなら、私たちも日々暮らすことで、自身のお話を紡ぎ出しているともいえよう。そのお話が、どうか、どんな困難があってもハッピーエンドでありますように。

*第63回青少年読書感想文全国コンクール 小学校高学年の部 課題図書

より以前の記事一覧

2018年7月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

Amazonアソシエイト

  • 野はら花文庫は、Amazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。
  • Amazon、Amazon.co.jpおよびAmazon.co.jpロゴは、Amazon.com, Inc.またはその関連会社の商標です。
無料ブログはココログ