子育て

2008年5月 8日 (木)

中学からの回答

ゴールデンウィークが終わった。後半の4連休は、我が家のたまりたまった掃除と母の手伝いをし、PCと離れた生活だった。主婦の私は、昨日は連休お疲れ休み。今日からまた元の生活に戻ります。

先日(4/28)に書いた中学への疑問の中に書いた、制服をなぜ登校時のみに着て、学校では着替えるかについての回答が「学年通信」に書かれてきたので紹介します。
 
 以前、体育の前、掃除の前、部活の前と着替えていたが、何回も着替えるのが大変なため(着替えのため、次の時間に遅れることもある)、登校した後にジャージら着替えて生活するようになっています。

なるほど、着替えに時間がかかるということか。体育は毎日ないけれど、掃除は毎日だから。私たちのときは制服で掃除していたのだけれど、いまは違うんだ。それに、体育、部活のときの着替えで、そんなに時間がかかると思った覚えはない。
もしかして、子どもたちが時間内に着替えられなくなったのかもしれない。いや、中学生になってうまく着替えられないということはないだろうから、さっさと着替える気がないということかもしれない。
それなら、いっそのこと、制服なしにしたら、もっと大変ではなくなると思うのだけれど、それではけじめがつかない。ということで、登校時のみ制服ということになったのかもしれない。学校側も大変だろう。

ところで、「学校によっては」ということは、どうやらうちの中学校だけでなく、同じ市立の学校でみなおこなわれていることかな? これも驚いた。

子どもたちが自由奔放に育てられるようになり、その分、規則で縛られていくような気がする。
規則になければわからないから、規則ができ、規則があるから頭で考えなくなり、考えないからまたおかしなことをして規則ができ、となっているとしたら、悪い循環だ。なんとかならないのかなあ。

2008年4月28日 (月)

中学、たくさんの疑問

おとといの授業参観の後の学年懇談会について。

学年懇談会では、評定についての話があった。テストの点数だけでなく、授業態度、挙手、提出物、忘れ物などをあわせて評価し、1年から3年の評定の合計が高校受験のときにかかわってくる。これは、かねてきいていたとおりだ。
テストの点だけよくても、日ごろまじめにしていなければだめいうわけだ。こつこつと学ぶことの大切さを考えれば、この方法もうなづける。
だが、「だから3年生の時5教科で400点代をとっていても、それまでの評定が低ければ、いくらがんばっても希望通りの進学ができないこともありうる」と改めて説明されてみると、ものすごく不思議な気がした。
だって、子どもたちはつねに成長している。その伸び具合は、身長の伸び方の差があるように一様ではない。たとえ1年のときの成績が悪くても、高校入試のときまでにぐーんと成長していて、その学力があるのなら入学させるべきじゃない? むしろ、その努力と成長を評価してあげてもいいじゃない? 可能性を信じてあげてもいいじゃない?
中学は子どもを育てるところで、評価することは二の次だと思うのだけれど……。 

さて、学年懇談の質疑応答で、ちょっとした驚きがあった。
息子の中学校では、登校時にだけ制服を来て、学校へ行くとすぐにジャージに着替えて制服をサブバッグに入れ、ジャージ姿で授業を受けて帰宅するように指導されている(ただのならわしだと思っていてたら、なんと生徒手帳にも書いてある)。
その理由は?と質問が出たが(わたしも知りたかった)、先生がそろって「さあ」と首をふるばかりなのだ。

そうそう、生徒手帳の中に、職員室の中に入るときのルールも書いてあって、たまげた。挨拶をするから、先生の机上のものにさわらない、椅子に座らないとまで書かれている。それって、規則ですか? 子どもたちがそこまで落ちているということ?

なるほど、小学校のときと、子どもの見方が違うのだと思う。受験をひかえているし、難しい年頃だ。いろいろな子がいて、いろいろな親もいて、子どもをいい方向に導いていくのに、社会性を身につけさせるのに、こうした細かな規則、決まりが順々にできていったのだと思う。
できれば、決まりや基準に頼らずに、良識や総合的な判断力を子どもも教師も親も培いたいものだ。理想論かな?

でも、まあ、ふつうに学校へ行って、ふつうに授業をうけて、提出物をだして、部活して、そんなふつうの中学生活をおくっていれば、決まり、基準なんて気にしなくても自然にクリアできるはず。ことさら騒ぎ立てることではないかもしれない。

2008年4月27日 (日)

進路学習

昨日は、中学校で初めての参観日+PTA総会+学年懇談会があり、ぴりっと引き締まった新鮮な気持ちででかけた。なんでもはじめてのことはわくわくする。
それに中学校では、小学校の2校区の子が集まっている。いっしょの小学校の子とその親たちとはもう顔馴染みだけれど、もうひとつの小学校からの方たちはほとんど知らないから、その方たちと出会うことが楽しみであり、また緊張することでもある。まるで、新入生と同じ気持ちだ。

さて参観日は進路学習で「将来の夢について」だった。あらかじめ親に「中学のときの夢はなにか」「夢を持ち続けたか」「夢は実現したか」 「夢を実現するにはどうすればいいか」「今の仕事に満足しているか」「子どもたちへのメッセージ」といったアンケート調査があった。その集計と子どもたちの夢を照らし合わせながら、いま自分たちはどうすればいいか?を、子どもたちが意見を出し合う授業だった。

夢を持ち続け自分を信じてあきらめずにがんばる派、夢にこだわらずさまざまなことにチャレンジする派に、先生が子どもたちの意見をわけて、どちらが大切か(両方大切という選択もあり)、子どもたちにたずね、結論は自分たちで考えてくださいということで終わった。

ふーむと、わたしもいっしょに考えこんでしまった。
わたし自身は中学、高校時代、将来の夢はほわわんと描いていた。なにもしなくても自然に才能が花開くと考えていて(才能があると信じていたのだ)、まあ本当に夢物語だった。そのくせ一方ではとても現実的で、とにかく進学して仕事について自活しなくてはと、高校時代はまじめに受験勉強することしかしなかった。ちがった3年間をすごせば、もっと人間の幅が広がったかもしれないと思うときもあるが、いまさらおそい。

だから、中学の時にこんな風に将来のことを具体的に考えさせてくれる授業があることは、なんて幸せだろうと思う。
夢といったって、憧れの夢(親の夢のベスト5をクイズ形式で問われたとき、「仮面ライダー」と冗談をいっている子がいたが、それに近い夢だってある)から、保育士や教師になりたいという現実にそくした夢まで幅広い。憧れを実現させる人もいる。夢を実現させて幸せになれるとは限らない。
そんなことを考えるとき、正しい答えはみつからなくても(正しい答えなんてないだろう)、自分の夢や将来についてどこまで真剣に具体的に考えるかが、とても大切だと思う。

ところでアンケートの答えは、中学の夢がかなったのは

14?%(数字に弱いので記憶違いかも)。クラス39人の中なら5人という。だが「今の仕事に満足しているか」には、

なんと80?%の方が満足と答えたとのことだった。すばらしい!! そういう私も満足していると答えた。

-------ここまで、朝、書きかけの原稿をUPしてしまったようです。
続きです。------

この齢になって(って、ほかのみなさんはひとまわりほど若い方も……)家庭があれば、みな、そこそこに落ち着いて、満足して生きているってことかな?
なんだか、ほっとするアンケート結果だった。

2008年4月 7日 (月)

信じられないことpart2

今日は、中学校の入学式。
かなりの余裕を持って朝のしたくをさせたつもりだが、毎日ジャージで登校していた息子のこと、学制服をきるのに一苦労だ。そのうえ、ズボンのベルトを調節しておいたつもりだが、まだゆるくてだぶだぶのズボンがずり落ちそうなので短く切りなおしたり、リュック型鞄の不要な肩かけヒモをとりはずしたり、友だちとの待ち合わせにぎりぎりで送り出した。

さて、食卓をかたづけ、私も着替えをしようとしていると、息子がはくように出しておいた学校指定の白いソックスが床にころがっているではないか。信じられない! 息子はいつもはいている柄入りソックスをはいっていったにちがいない。
すわっ! エプロンのまま車に飛び乗り、息子を追いかけた。とはいえ、学校までの道は団地内のため幾通りも考えられる。最悪の場合、校門前で会えるが、できればその前につかまえたいと、祈るような気持ちで息子が通りそうな道をいくと、いたいた! 三人の新米中学生が元気に走っている。すぐそばまでいくと、息子は私がわかったらしいが、様子を見にきたのと思ったのだろうか、そのまま走りさろうとする。
「くつした、くつした!」と白いソックスを見せると、ようやく気づいて「あ、まちがえたー!」。友だちにも「おまえ小学生気分じゃん!」とからかわれている。
息子は大急ぎで路上ではきかえ、靴ヒモを結びかけで友だちの後を追っていった。

帰宅後、「よかったね。気づいて」というと、「間違っていても誰も気づかんかったと思うよ」だって。気づかないのは、あなただけだって!!

やれやれ、先が思いやられます。

2008年4月 4日 (金)

信じられないこと

息子の自転車が昨日到着した。学校へは徒歩通学だが、部活の遠征時にいるというので近所の自転車屋さんで購入したのだ。ジュニア用のパンクしかけの自転車しか持っていなかった息子は大喜びだ。さっそく昨日からあちこちへでかけていたのだが、なんと今日の午後、もう壊してしまった。ええっ? 信じられない!
自転車をたててタイヤを空回しし、車輪がまわっているうちにキーを差しこんだというのだ。はあ? 信じられない! 

息子は友だち3人といっしょに自分で自転車屋さんに持ちこみ、「おうちの人にきてもらいなさい」といわれて、友だちをつれてわたしを呼びにきた。わたしが車で息子を乗せて自転車屋さんにいくと、その後を友だちも自転車で追っかけてくる。その子たちの自転車もみな新品。同じ自転車屋さんで買ったものだ。

自転車屋さんで説明を聞き、修理を頼む。お店の人に「○○さんも買ってすぐ修理にきましたよ」と言われる。息子のサッカー仲間だ。なんだか少し安心する。

息子はすっかり気落ちした様子で、店を出ると、友だちにまた遊びにいこうと誘われたが「ぼくはもう帰る」といいだした。友人たちはちょっぴり悲しそうな顔をするし、わたしもせっかくついてきてくたれ友だちにそれはないじゃない? という顔で見ると、「やっぱり、行く」といい、自転車についてかけだした。

「みんな、気をつけてよー」と自転車屋さんと声をかけた。まあ、修理代はかかるけれど怪我もせず、怪我をさせたのでもなくよかった。そして、なによりいい友だちができてきていることがうれしい。

2008年3月26日 (水)

卒業式

昨日は息子の小学校の卒業式でした。

おめでとう!!

卒業生はどの子もまじめな面持ちで、入場、卒業証書授与、答辞、合唱、退場を立派にやってのけました。勝手に席を立ったり、大声で話したり授業ができなかったこともある子どもたちがなんと成長したことか。息子も緊張気味で、入場のときには、ぎくしゃくした歩きになってしまい、それをちょっぴり照れ笑いしていましたが、卒業証書は落ち着いて受け取っていました。

すばらしかったのは、合唱でした。「旅立ちの日に」「ふるさと」「最後のチャイム」を、息をあわせて力いっぱい歌いきりました。いままで参観日などや記念CDで聴かせてもらっていますが、いままででいちばん大きな響きになったように思います。

クラスでの最後の授業では、担任の先生に名前を呼ばれて、色紙をいただきました。子どもたちひとりひとりの名前の一文字とメッセージが書かれています。それから、子どもたちから先生へひとりひとり手紙を渡しました。
先生はもう涙、涙。子どもたちは先生に声をかける子、見つめる子、涙で先生の顔も見られない子、照れて下を向いていた子それぞれでしたが、この1年間、先生と子どもたちの関係がとても素敵だったことが感じとれました。
照れ屋の息子は、思いがけず先生に声をかけ、先生が「う~ん、がんばる!」と答えて下さっていました。母はびっくりです。
最後に先生は「こんなわたしがお母さんお父さんがたにいうのはなんですが、子どもたちはすばらしい子たちばかりです。転んでもきっと自分で立ち上がります。信じてあげてください」といってくださったことが心に響きました。
新任2年目の若い先生です。「子どもたちのことは、まだわからないことばかりなのでいろいろと教えてください」といつも謙虚に親の声をきいてくださいました。でも、子どもたちと年が近い先生は、親である私たちよりずっと、子どもたちの心に近い心を持ち、子どもたちの気持ちをよく理解できたことと思います。
初めての卒業生だから決してみんなのことを忘れないといわれた先生、子どもたちも先生の言葉を決して忘れないでしょう。

ありがとうございました。

2007年8月22日 (水)

旅だちの一歩

 とうとう、我が家の息子にも自分の部屋ができた。小6になるこの夏まで、息子には、部屋どころか、勉強机もなかった。勉強も遊びも居間で十分、寝室も親といっしょでいいと、わたしたち親が考えていたからだ。
 ところが、6年生になったころから、息子だけの空間と時間が必要だと思えるようになってきた。
 たとえば、友だちが遊びにくる。近所の幼馴染たちは、わたしという、友だちの母親の存在に慣れっこになっているから、あまり気にしない様子だ。けれど、最近遊びにくるようになった同級生たちは、わたしと顔を合わせると気まずい顔をする。「外でいこうぜ」と誰かがいいだし、そそくさと出て行く。
 また、たとえば、息子が、陰気な顔で学校から帰ってくる。「どうかした?」と聞いても「別に」。しつこく聞いてもしかたない、そっとしておこうとパソコンに向かう。息子は漫画なり本なり読んでいるが、不意に「2階へ行って、昼ねしてくる」と、2階の寝室へあがっていく。
 また、たとえば夜、まだ9時にもならない時間から「今日は眠いから早く寝る」と2階へ上がっていく。10時ごろわたしが上がっていくと、眠いといっていたはずなのに、漫画を読んでいる。

 日曜日、家具屋さんからロフトベッドがきて、4畳半の小さな部屋が息子の部屋になった。うきうきして、息子は、さっそく幼馴染たちに披露し、その夜からひとりでベツドに入った。きっと、興奮して眠られないだろうと思ったが、夜更けにみにいけば、意外にもぐっすり熟睡している。
 わたしの方は、夜目覚めて、隣に息子の姿がないことに、胸にぽつんと小さなあなのあいたような寂しさを感じる。思えば、息子が生まれてから11年間、夜めざめれば、必ず隣の息子を見てきた。汗をかいているので、ふとんをよけたり、朝方になってかけなおしたり、窓をあけたりしめたり……。息苦しくて目が覚めたら、息子の足が胸にのっかっていたり、肋骨あたりをしたたかにけられて、骨折するかもしれないと本気で心配したこともあった。でも、息子の寝顔をながめるのが、わたしは好きだった。

 こうして、少しづつ、息子はわたしの手元からはなれていくのだろう。手のひらに握りしめようとしても、いや、強く握れば握るほど、するすると指の間から抜け出ていき、おしまいには思い出の小さな珠だけが手のひらに残る。それを思うと、息子と過ごす、ひとときひとときが、貴重なひとしずくに思われ、いとおしい。

 息子はいま、自由と未来への希望で心を満たし、親の手をはなしてひとりで歩き出した。日曜の夜は、息子はジュース、親はワインで乾杯した。旅だちの一歩のお祝いに。
 


 
 

2006年4月26日 (水)

登校指導

 息子の小学校では、学期はじめに、保護者による登校指導週間がある。いままでは、当番に当たった日に、これもおつきあいという感じでちょこちょこっと、家のすぐそこまで出ていたのだか、今年は地区長。はりきって、7つある地区の分団に、毎日ひと分団ずつ、ついて学校まで歩くことにした。
 1日目、新1年生が加わり、どの子の顔も輝いて見えた。学校までは2キロ近くあり、上り坂もあるので、大きな子が小さな子の手をひっぱり励ましながらの登校。登校指導のお母さん方のほかに、地域のたくさん方が、学校のサポーターとして、安全指導員として見守ってくださっている。なんだか、あたたかい気持ちだった。
 ところが、2日目、3日目と日がたつにつれ、新鮮さが消えたのか、疲れが出てきたのか、1年生の顔はくもりだし、大きな子は自分の友だちと話すほうに夢中になって、小さな子をほおりだす子が出てきた。列も乱れてきた。「1年生の子を見てあげて。待ってあげて」と注意しても、元気のいい子たちは、なかなか言うことをきいてくれない。
 信号では、後ろのほうの子たちが取り残されたり、もう赤信号になっているのに、横断歩道をうろうろしていたり、危なっかしくてしかたがない。うまく指導しきれないうちに指導週間が終わってしまった。

 子どもたちの登校の様子を知らなければよかったのに、知ってしまった以上は、ほおっておけない。それに毎朝、出てくださっている地域のボランティアの方に、甘えてばかりでは申し訳がない。かくしてわたしも、指導週間の後、学校のサポーターとして、息子の分団について歩くことにした。サポーターには、もともと、お昼休みの読み聞かせをするために登録していたのだが、自分の運動にもなるから一石二鳥だ。
 
 そのボランティアの方から、ときどき、大きな子が小さな子に、度をこしたからかいをすることがあると聞いた。わたしの見ている前で、そうしたことは起きなかったのだが、大人の目があると、子どもはセイブするのだろう。
 そういえば、うちの息子も低学年のころ、後からたたかれたとか、飛びけりをされたと訴えていたときがあった。息子ががんばれると言ったので、そのまま乗り越えさせたし、それで息子も鍛えられたと思っていたのだが、それでよかったのだろうか。そのころ(まだ、サポーターの制度はなかったが)、わたしがいっしょに歩いていれば、いやな思いをしなくてすんだのかもしれない。
 でも、子ども同士のことは、子ども同士で解決してほしいという思いもあり、親はどこまで手をだすか考えてしまう。難しいところだ。

 

 

2005年11月22日 (火)

ウォーターシップ・ダウンのうさぎになりたい!!

「野生のうさぎって、気ままでいいよね」息子がしきりにいうようになった。

彼はいま、カートゥーン・ネットワークで放映中の「ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち」に夢中なのだ。もともとは、これの原作をわたしが読みたいと思っていたので、アニメを見て、ついでに本も読もうと思って、親子で見始めた。ふむふむ原作のいろんな要素がごっちゃになってるなどと冷めて見ているわたしの横で、息子はアニメの牧歌的な世界にすっぽりとはまっったらしい。

「ええー、うさぎってこわい敵もいるし、人間に鉄砲で撃たれそうになるし、穴掘りもしなくちゃいけないし、大変だよ」と、いくらわたしがいっても、「でも、おもしろい冒険ができるもん」という。アニメでは、うさぎたちが遭遇する危機や困難は悲惨に描かれていないし、その苦しみをうさぎたちはあっさり乗り越えて穏やかな日に戻っていくので、うさぎたちの暮らしが楽しみ見えるのだろう。
「冒険はうまくいくかどうかわからないんだよ。それでもいいの?」とわたしが聞くと、息子は「冒険の結果がはじめからわかるんならつまんないよ。わからないからわくわくするんだもの」と立派なことをいう。
そこでわたしは「じゃあ、勇気のいることをするときは冒険、いやなことをやるときは穴掘りだと思ったら?」といってみた。

すると昨日、学校から帰ってきた息子は、
「ぼく一日ウォーターシップ・ダウンのうさぎになったつもりですごしたんだ。学校へ行くときは『ようし、冒険だ』と思ったし、授業がはじまったら『穴掘り開始』といって足で掘るまねをした。すごく足がつかれたけど(当たり前だ)。それから休み時間は『軍事訓練はじめ』(息子には軍事訓練がものすごく楽しそうに見えるらしい)。帰るときは『ようし、我が家へ戻ろう』って思ったんだ。そしたら、一日ものすごく楽しかった。ぼく、うさぎになるよ」という。

へええ、おもしろいことするんだなと思っていたら、家のなかでうさぎのように飛び跳ねて移動はじめた。宿題をする前には足をゆらす(穴掘りをしているつもり)のだ。
今朝は今朝で、新聞を口にくわえて持ってきてくれた。そこでわたしも、うさきになるのに協力して、生にんじんをお皿にのせてあげた。

いつまで、このうさぎごっこが続くのかわからないけれど、息子が自分の中になにかを作りたがっている、ほしがっているのではないかと思う。

2005年10月28日 (金)

話せばわかる

 息子は気が優しい。そんなところから、学校で友だちにからかいの対象にされることが多いと担任の先生はいう。でも当の本人は、鈍感なせいなのか、あるいは無意識的に気持ちを押さえ込んでいるのか、からかわれているという自覚はあまりないようだ。

 友だちにからかわれることより、むしろ、そのことを担任の先生が、クラス全員の問題として息子の名をあげて取り上げるのが嫌だと、今年度になってからときどき、息子は私に訴えていた。また、いじめられた方なのに、「なぜ、いやだとはっきり言わないの」と、先生からしかられるのも納得がいかない様子だ。

 わたしはその指導方針に多少の疑問をもちつつ、先生が情熱をもって指導していることはよくわかったし、厳しい世の中にでていくには自己主張も大切だから、先生にそう指導してもらうのもいいと思ってきた。けれど、おととい、「○○さんを野ブタ(日テレのドラマ)のようにしてもいいのですか?」と、先生がクラスで言ったときいて、このままではうちの子が「いじめられっこのレッテル」をはられて、つぶされると思い、昨日、担任の先生に話に行った。

 先生は、野ブタのことはみんなに話したが、○○さんとは結び付けていないという。どうやら、息子が勝手に結び付けてしまったらしい。だが、先生は、息子がそういう風に先生の話を聞いたことや、先生の言葉で心を傷つけていたことは理解してくれた。そして、クラスの前でそういった話をするときは気をつけるといってくださった。そのあとの昼休みには、息子に直接懇談して、息子本人の口から気持ちを聞き、先生の考え(小さなからかいを放っておくと、そのうちにだんだん大きくなるから、もっといやなことはいやとはっきりいわなければならない)も話してくれ、息子も納得したようだ。

 いじめられたと決めつけられて、いやだと言わなかったことで、いじめた子より怒られ、でも、先生にその不満をふつける勇気はなかった息子。今回のことで、先生との意思の疎通ができて、話せば通じることを体験してくれたなら、大きな収穫だと思う。

 でも、親の自己満足かもしれない。なにしろ息子は帰ってきて、「昼休みをつぶされた」とこぼしていたから。

 

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