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書籍・雑誌

子どものためだけじゃない『子どものための哲学対話 』

 成人の日に偶然NHKラジオできいた「書評ゲーム ビブリオバトル 成人の日にはこれを読め」。川上未映子さん紹介の『子どものための哲学対話 (講談社文庫) 』が読みたくて図書館へ。きっと私と同じような人がいたのだろう……予約待ち。ようやく私の番が来た。

子どものための哲学対話 (講談社文庫)
 永井均著
 内田かずひろ絵
 講談社

      

 中学生の男の子とねこのペネトレが、対話をしながら哲学的な思考法へ導いてくれる本。
 一度読み通して、もう一度読み、また気になるところをつまみ読みして……と、何度も読み返している。

 第1章「人間は遊ぶために生きている!」
     そうだったんだ!
 第2章「友だちはいらない!」
     そ、そうだったんだ!!
 第3章「地球は丸くない!
     そ、そ、そうだったんだ!!!

 常識というのだろうか、これはこうにきまっていると思っていたものに、さーっと新風が吹いて、まったく新しい景色を見せてくれた感じ。

 ネアカとネクラ、上品と下品、善と悪、ちゃんとした人といい加減な人の違いを、私が今まで思っていたのと少し違う意味でばっさりと切り取って、すっきりと整理してくれた。これが、とても気持ちがよかった。
 元気が出ないとき(感情が乱れているとき)や、いやなことをしなければならないときの対処方法は、なるほどと納得し、やってみようと素直に思えた。

 小難しかったり、考えがぐるぐるまわってわからない箇所も多い。それについては終章で、読者によって、また、同じ読者でも読むときによって、この本の意味は違う。「自分について重要なことが言われていると思ったら、あとは自分で考えていけばいい」と書かれていた。
 だから、この本が示している考え方から広がっていった自分の考えは、どれもみな、いまの自分にとっては正しいはず。

 私自身は、この本を離れて、日常の生活をしているとき、ふいに、「自分のすべてを肯定して、何をするにしても今この瞬間を楽しく生きる、ネアカで上品な、強い人になりたい、きっとなれる、なろう」という、きらきらした考えが、さーっと下りてきた。心が晴れて、ふうっと楽になった。

「子どものための~」というタイトルどおり、若い人に読んでもらいたいけれど、私のように、長く生きてきたくせににまだ生きることについて悩む中高年にとっても、残された時間を遊んで生きていくためにお薦め。

 ところで、ネアカとネクラは生まれの問題らしい。生まれつきというのかな? だから、ネアカのふりをしてもまた本来のネクラがでできて、せっかく晴れた心も曇るかも……。それでもいい。またこの本を読めば、なにか気がつく。あるいは、同じ作者の別の本を読んでみるのもいいかもしれない。

『子どもの育ちを支える絵本 』実体験を助ける絵本を!

子どもの育ちを支える絵本
 脇明子編著 
 岩波書店

     

 今まで『読む力は生きる力 』『物語が生きる力を育てる 』と読んできて、 続けて読みたいと思っていた本著を、ようやく読んだ。この本では、とくに幼い子と絵本のかかわりについて書かれている。

「はじめに」で、脇明子さんは、幼い子には、まず豊かな実体験が大切。その実体験を助ける絵本を読んでほしいといっている。この実体験には、ふたつの柱がある。人間関係の体験と身体と五感を使う体験だ。

 それは、私が、もやもやと感じてきたことだ。それが、こんなにすっきりと整理されていて、すーっと入ってきて、とても嬉しかった。

 では、具体的にどのような絵本を? というのが、本論だ。
 本論では、保育園での読み聞かせと子どもたちの生活を実例にあげられていく。そこには、絵本から実体験、実体験から絵本と行き来して豊かに育っていく姿があって、子どもとともに生活をする大人たちの読み聞かせの意義の大きさを実感する。

 残念ながら、すでに子育てから離れ、保育士でもない、わたしのような読み聞かせのボランティアは、そこまで子どもたちとの生活とかかわることができない。たまたま読んだ本が、ある子の実体験をひろげていくこことはあるだろうが、それを確認することは、まずできないだろう。 
 でも、ささやかながらも、きっと力になるはず。そう信じて読んでいきたい。

 ところで、巻末には「絵本選びと読み聞かせのために」の3つのコラムがある。読み聞かせボランティアとしてはコラム1の「絵本選びのための7つの手がかり」がとても参考になった。擬人化については厳しい意見がずばりと書かれていて、考えさせられる。ぜひ、読んでほしい。

重要な学校司書『自分を育てる読書のために』

 子どもと本にかかわる方たちにぜひ、読んでほしい1冊。

自分を育てる読書のために

 脇明子・小幡章子著 
 岩波書店

   

 いま、多くの小・中学校で、読書推進のため、朝読書の時間がもうけられている。読む本は子どもまかせ、自由になっていると思う。だって、読書は個人的な営み。規制するのはおかしい……。それは、そうなのだけれど、さまざまな出版物があふれている現在、子どもたちは、心の栄養になる本(道徳的というのではなく)を、自分で手にすることができるだろうか。
 息子が中学の時、間違って隣の席の子の朝の読書記録表を持ってきてしまったことがある。その表を見て驚いた。人気テレビ番組の同じ本の名が、毎日連なっていたのだ。提出チェックの欄には、先生のチェック。息子の話では、読んでいて、それを提出すればなんでもいいとのこと。息子のはといえば、毎日同じではないものの、そうした本のほかに、話題本、それから、人気の科学本などが主だった。息子は、小学校高学年ぐらいから私の薦める本は、逆に読もうとしなくなった。読んでほしい本が決して読まれることがないだろうことを、残念に思い、また、自分のやり方がへたくそだったと反省しつつも、そういう時期が来た、息子には息子の趣味・世界がある、今の子には今の子の本があると諦めた。

 それが、この本では、中学生の、ほとんど本を読まなかった子たちにも、よい作品、古典を楽しく読ませたという記録が載っていた。信じられないことだった。

 脇明子さんとの共著となっているが、本文を書いているのは、中学校図書室で司書として中学生に本の楽しさを伝えた小幡章子さん。
 彼女がしたことで、もっともすごいのは、ひとりひとりにぴったりの本を選ぼうとしたこと。生徒ひとりひとりの性格、好み、読書歴を知り、心を通わせたうえで、ピッタリの本を薦めていく。
 さらにすごいのが、本を薦めた後の声掛けのフォロー。彼女は紹介した本の内容を熟知していて、子どもたちに、主人公がいま何をしているか聞いたり、登場人物のなかでだれが好きか聞いたり。子どもが本の中身について話にくれば、もちろんすぐ応じて、子どもたちと本の世界を共有する。これは、話のあらすじさえ、すぐに忘れてしまう私にはとてもできないことだ。
 子どもたちは、彼女のきめ細かく、温かい読書案内に、心をひらき、読書の道へと入っていく。こうした、本を熟知し、子どもをわかろうと努力を惜しまない司書の方が、全ての学校にこうしたいたら、子どもたちの読書、いや、子どもたちは、ずいぶん違ってくるはずだ。司書の方には、親や先生にはできないことができる。
 だから、図書室専任の正規の司書が、すべての学校にいてほしい。ぜひ、ぜひ、ぜひ!!

 

いま読みたい本『クマともりとひと』

 先月、さくまゆみこさんの講演会で紹介していただいた本。

クマともりとひと―だれかに伝えたい、いまとても大切な話

 日本熊森協会会長 森山まり子著
 合同出版
 2010.8.20

     

 熊森協会会長、森山まり子さんの本と耳で聞いたとき、思わず笑ってしまった。「クマモリ」だって?「モリヤマ」だって? だが、読んでみて、真剣にならざるをえなかった。わたしたちは、文明を進歩させるために大変な間違いを犯してしまった。それは、震災後の原発事故でいたいほど思い知らされているが、ずっと前から、クマたちが人里へでて、警告していてくれていた。
 クマの警告に耳を傾けたのは、中学1年生の女子生徒だ。彼女は自主勉強のノートに、ツキノワグマが冬眠中に人里へでてきて射殺されたという新聞記事を添えて、自分の気持ちを素直に作文で表した。それを読んだ理科教師(著者)が、それを理科だよりにして教室で配ったところから、生徒たちにクマを守ろうという声があがり、運動へとひろがっていった。

 私の実家の近くでも近年クマが時々出没する。クマが現れるようになったころから、実家の母に別の悩みができた。なにかわからない小動物(ハクビシンかもしれない)が夜中にやってきて、家庭菜園で育てたイチゴやとうもろこしなどを、きれいさっぱり採っていってしまうのだ。「家族に食べさせようと思って、せっかく育てたのに」と母は腹をたて、嘆く。だから、農家の人が動物たちに作物を荒らされたら、どんな思いをされるかよくわかる。クマを殺すな!だって? なにを生ぬるいこといっているのよ。と正直、私は思っていた。天候不順によるどんぐりの不作で、動物たちが里へ出てきたと私は報道などで知っていた。でも、それが、人間のせいだとは、豊かだったはずの森に何をしてしまったのか、今、日本の森がどんな状態なのか、まったくわかっていなかったのだ。
 森山先生は、生徒たちと運動を通して知りえた森の現状、そして、行政の現状を、この本で、整理して教えてくれた。害獣のクマは殺すしかないと、私はもう単純にいえない。しかし、被害にあっている農家のことを考えると複雑だ。世界規模の、長期的な、包括的な対策がとられないと、何ともならないと思える。一部の人の運動では、とても無理だ。大変なことが起こっている今、みんなで考え直すときだろう。

 ところで、この本で森山先生は、もうひとつのことを教えてくれている。ぬくぬくと育ち、生きる力がない、支持待ち人間といわれる、今の子どもたち(すでに大人になったわたしもそんな子どもだった)が、真の目標さえ持てば、こんなにも活発に動き出す。とても力強いのだ。私たち人間は、環境だけでなく、子どもたちの力も、自分たちで奪っていた。

 これからの日本、方向転換して、世界をリードしようよ。

心が洗われる『鼓動を聴いて』

 今日は、いったいどういうのだろう。朝からずっと、気持ちが晴れ晴れしている。昨日の雷雨が、澄んだ秋の空気を運んできたせい? それもあるけれど、もしかしたら、昨日読んだ本のせいではないかと思う。

 心の洗われる作品だった。

鼓動を聴いて (ヴィレッジブックス)
 ヤン‐フィリップ・センドカー著
 たかお まゆみ訳
  ヴィレッジブックス

        

 ニューヨークの女性弁護士ユリアの父親は、4年前に失踪した。父親はビルマからの移民で、有能な弁護士だった。ユリアは、父親を行方を求めて、ビルマのカローへやってくる。そして、茶店に入ると、ビルマ人の男が話かけてきた。男は、名をウ・バと名のり、ユリアも父親も知っていて、ユリアを4年間待っていたという。そして、ある物語を始める。
 それは、幼くして視力を失った少年ティムと、生まれつき足が不自由な少女ミミの愛の物語だった――。

「あなたは、愛、を信じますか?」(p15)

 ビルマ人の男ウ・バはまず、ユリアに、たずねる。

 いきなりの問いに戸惑うユリアに、ウ・バは、さらにいう。「欲情の激動のような愛のことではありません」「目に見えぬ者を見える者のように導く愛のことです。恐れに打ち克つ愛のことです。人生に意味をあたえ、人を成長させ、限界を打ち破る愛のことです。利己主義と死を超えた、人としての圧倒的な勝利のことなのです」(p15、16)

 この作品には、そうした、清やかで崇高な愛が描かれている。それとともに、運命をうけいれるとは、生きるとは、どういうことかが描かれている。

 ティムとミミはふたりとも、小さなころから重い運命を背負う。その深い悲しみ、苦しみのは、他人にはなかなか理解されない。そうした二人が出会い、心のそこまで理解しあう。そこに愛が生まれた。

 ふたりが会うとき、ティムがミミをおぶる。ミミがティムの目となり、ティムがミミの足となる。生き生きと躍動するふたりの姿は、美しくほほえましい。読んでいて、楽しいところだ。。
 でも……と、現実にかえってふと思う。もし、町の通りでこうしたふたりの姿を見かけたら、わたしは、どうするだろう? 本で読んだ時のようにほほえましく思うだろうか? いや、思わず、目をそらしはしないか?

 しかし、作品の中では、わたしはふたりの思いを理解できた。ふたりはたしかに美しい。そして、ティムの養い親となる叔母、ミミの母親も美しい。どんなに貧しい姿をしていようとも。
 ティムの師、ウ・マイはいう。「見えているのは表面だけ」「もっとも大切なものは目に見えない」
 飾りたてられたり、手垢にまみれたりして、見えなくなっている大切なものを、この作品は、清らかにしてさしだしてくれた。

 喜びとともに苦しみや悲しみもある人生。どうにもならないことがある人生をそのままに引き受けて生きること自体がなんと尊いことか。それを感じたとき、わたしは、心がさあっと澄んだのだ。

胸がすく『こんな私が大嫌い!』

 たいていの人は私ががんばりやだと思ってくれる。私もそう思う。でも、その裏で、ものすごく劣等感が強いのも確か。そんな私の正体を、気持ちいいくらいに、ざくっと割ってあばいてくれたのが、この作品だ。

こんな私が大嫌い! (よりみちパン!セ)

 中村うさぎ著 理論社

        

「自分を愛さなければ人を愛せません。自分をまず愛しましょう。自分を受けいれましょう」。落ちこんだとき、生き方の本を開けば、そんな言葉によく出会う。そのとおりだと思い、その言葉で自分を励ましてみる。私は私でいい、私はそのままで素敵! でも相変わらずまわりには、自分よりずっと美人で頭がよくて、おまけに性格もよい人がいて(天は二物を与えずなんてうそ)、その人はなにをやっても自分よりうまくやる。やっぱり、劣等感を抱かないではいられない。そのうえ、自分がその人に嫉妬してイジワルしちゃったらもう、自分がそのままで素敵なんて、ぜったい、ぜったい思えない。で、また落ちこむ。
 そもそも落ちこんでいるときは、自分が受けいれられない、自分が愛せないから、悩んでいるのだ。それを愛しましょう、受けいれましょう。といっても、土台、無理な話。じゃあ、この大嫌いな私を、どうすればいいのよ!? というところを、きれいごとなしにと教えてくれるのがこの本だ。

 作者は、中村うさぎさん。美容整形・買い物依存症などの自らの体験、拒食症でなくなったシンガーのカレン・カーペンターズの悲劇を例にあげながら、「自分が嫌い」「自己評価が低い」とは、どういうことなのかを、ずばっと書いて、「自分との付き合い方」を覚えて! 生きるのがらくになるよ!と語りかける。

 対象は、目次にあるように「自分の顔が嫌い!」「自分のカラダが嫌い!」と感じやすい思春期、十代の女の子たち。でも、作者のうさぎさんと年齢が近い、すでにオバサンの私も、いまだに、好きになれない自分がいて、つらいから(精神年齢が十代から成長していないということか)、ずばりと核心をつかれて、胸がすく思いだった。

 また、巷でいわれていることが、この本を読むことでさらに理解が深まった。たとえば、幼少期の親の接し方が、自己評価の低さにつながるということ。しかし、なんでもかんでも親のせいにして甘えすぎているという思いを(これは、この本がいっているわけではないが)強くした。だって自己評価を低くしているのは自分だ(その自分の考え方に親が大きな影響をあたえているとしても)。また、話題になっている勝間和代さんと香山リカさんの幸福論論争は、つまりは、こういうことだったんだと理解した(これもまた、この本に直接書いてあるわけではない)。

 親世代は、この本をわが子への思いにも応用できる。「自分」を「わが子」に置き換えて読めば、どうして、わが子の欠点にはこんなにも腹がたつのか、ものすごく納得でき、子育てのヒントになるだろう(子育てでは、子どもをありのままに受けいれようといわれるけれど、実際にはかなり難しいことだもの)。

 十代の女の子に限らず(男の子はちょっと手にとりにくいかもしれないけれど)読んでみてほしい。自分嫌いの正体がつかめたら、きっと人生がもっと楽しくなるはずだ。

親と教師必読書『いじめでだれかが死ぬ前に』

大人が読んで子どもにぜひ伝えてほしい本。

いじめでだれかが死ぬ前に―弁護士のいじめ予防授業
 平尾潔著 岩崎書店

   

書評はbk1を見てください。

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『子どもに本を買ってあげる前に読む本』うーん、悩むね。

 なぜ、わたしの薦める本を息子はなかなか読まないか? その答えをもとめて赤木かん子さんの『子どもに本を買ってあげる前に読む本―現代子どもの本事情 』(ポプラ社)を読んだ。

        

 答えは、う~ん、よく、わからない!

 わからないことが、すこしショックだった。内容以前に、話し口調の文章の意味がときどきわからない。指示代名詞がなにをさすのか、ひとつの言葉がどの言葉にかかっているわからなかったりする。今はやりのハイテンポで英語混じりの歌が聞き取れないように、行間のたっぷりある文についていけない。あ~、わたしは旧人類だ。意味もわからないし、受けいれられないんだあと思ったりした。

 それはさておき、装丁、字体、言葉について書かれている部分は、かん子さんの説明についていけて、ふむふむその通りと思えた。

 でもどうしてこうも極端な論理を、かん子さんは書いたんだろう。

 ここで、子どもに本を薦めたがる大人であるわたしの言い分を書いておこう。

 好きな本を子どもと分かちあいたいというのは、野球の好きな親が子どもにキャッチボールを教え、音楽好きな親かピアノを習わせるのと同じ、ごくごく普通の感覚だ。子どもが嫌がっているのに千本ノックをしたり、1日に何時間もピアノに向かわせたりするのは、親の暴力で、同じようにどうしても読みたくないという本を無理やり読ませるのもいけないけれど、この本おもしろいよと薦めるのはいいんじゃないかしら。程度の問題だと思うのだ。

 退屈かもしれないけれど、子どもにはクラッシック音楽をプロの生演奏で聞かせたいと思うでしょう。ぜんぜんわからないかもしれないけれど、美術館へいって名画を見せたいと思うでしょう。子どもたちがそれを自分のなかにとりこむかどうかは、わからないけれど、その機会を与えるのは、大人の役割だと思う。
 同じように、かん子さんのいわれるすでに「古典」になった本を子どもたちに読ませるのは、悪いことじゃないでしょう。のめりこむ子だっているかもしれない。

 ところで、わたしが子どもの頃、わたしの周りには、今ほど本がなかったし、あの時代、いまほどというより、ほとんど親にも先生にも読書を薦められなかった。今は、どの学校でも読み聞かせや、朝の読書の時間がわざわざもらえるけれど、私の時代はまったくゼロ。田舎だったからだろう、絵本なんてほとんど見ていない。学校の図書館で借りて読むのがせいぜいで、それだって、今みたいに図書週間には何冊読もうなんて目標はないし、好きな子が好きなだけ借りるというシステムだった。読書感想文用の本(それも、目次だけ読んであらすじを推測する)以外には、ほとんど読んでいない子だっていた。友だちにこれおもしろいよと薦められたことはあるけれど、先生に教えてもらった覚えはない。読書は趣味のひとつだった。

 子どもの活字離れがさけばれ読書が推奨されていること、実はこっちの方に問題があるんじゃないか、とわたしは思う。好きな子が好きなだけ読めばいい趣味の読書ではなくて、どの子も読まなければならない義務の読書になってしまった。だから、大多数の子が楽しめる本が必要になってくるのだ(出版社の方も売れる本でないとね)。
 でも、だからといって、人気のない本を切り捨てていくのは、どうかしらと思う。「古典」にはいったという「おさるのジョージ」だって、読み聞かせすると、子どもたちはとても喜ぶと聞いたことがあるし、ゲド戦記(わたしは大人になって読んだ)を好きな子だってきっといると思う。今の子がゲド戦記を読む権利はあるんじゃない。趣味の問題だもの。

 あれっ?(と、熱くなっていたけれど、ここで気づく) これってもしかして、かん子さんのいいたいことと同じ? 読書は趣味の問題だから、何を読でもその子の勝手ということかな? だったら、なおさら、いろいろな選択肢を子どもたちにのこしたいし、機会を与えたい。押しつけるんじゃなくて……(だから、押しつけずに薦めるのが大人には難しいんだって)。

 さて、『子どもに本を買ってあげる前に読む本―現代子どもの本事情 』のなかで、こわいと思ったことは「ハリー・ポッター」シリーズについて書かれていることだ(P80~)。「ハリー・ポッター」シリーズは、批判もされてもいるけれど、熱中して読んだ大人だってたくさんいる。もし、かん子さんの解析が正しいとすれば、とんでもなく甘ったれた人間の世の中になってきているってことだ。
 もしかして、かん子さんは、子どもたちと大人の変化に警鐘をならしている? いや、そうではなくて、時代の流れだから、良い悪いではないといっている? 

 そこで、わたしは息子にどう接する? いま順に読んでいるサトクリフの作品は、ぜひぜひ息子と分かち合いたい。でも、息子はシャットアウト。はいはい、無理強いはしません。でもね。この本おもしろいよと、伝えておくことはいいんじゃないかな。もし、彼がその気になれば、きっと手にとるでしょう。
 ま、お母さんはお母さんの好きな本を読むから、あなたはあなたで、好きな本を読んで、ということか。親離れ、子離れだね。

現代を知る―「世界征服」は可能か?

ハリー先生にゆずっていただいた「中坊のリアル本」で、お勧めの本、息子が読み、母が読み、食卓にあったのをみつけて父が広い読みした。

「世界征服」は可能か? (ちくまプリマー新書 61)

          

「空想科学読本」シリーズが息子の中学校では人気らしい。
この本も、アニメや漫画、特撮番組の悪役たちの解説から入っているので、「空想科学読本」系の本だと思って読み始めた。だが、なんとなんと、歴史を鑑み、現代を読み、未来を模索する本だった。

まず、世界征服する目的を4つのタイプにわけ、その事例をアニメから史実まで、幅ひろい範囲のなかから示す。そして、その目的を、現代社会の中で果たすためには具体的にどうすればいいかが、これもまたアニメから史実まで、幅ひろい範囲のなかの事例を出しながら、解説してくれる。

仮面ライダーやガッチャマンが、ヒトラーやローマ帝国と同一線上に語られていくのが、痛快で愉快だ。しかし、そのなかに著者の垣根のない膨大な知識と、深い洞察と、真摯な願いが感じられる。

歴史音痴の母は、とくにローマ帝国とアメリカの関係をはじめて知り、感心した。息子はとくに漫画の悪役たちの解説が面白かったらしい。かわいそうなヨミさま(『バビル2世』横山光輝)作)は、母子ともに大笑い。歴史大好きな父は、どこを拾い読みしたのか聞いていないが、あの目はもう完全に文に入り込んでいた。

息子が高校生ぐらいに読んだら、また違う読み方をするかもしれない。でも、そろのころには、まだ時代がかわり、その時代を痛快にきる本が出てくるかな。

中学生以上のおとなにお薦め。

今、よむ本。

ハリー先生にゆずっていただいた「中坊のリアル本」のなかから、まず息子がいちはんに目をつけた本から親子で読んでみた。

魔王 (講談社文庫) 』伊坂幸太郎作
  ※実際に読んだのは、図書館で借りたので、単行本です。

     

「魔王」と「呼吸」が収録。
 安藤兄弟は、子どものころ交通事故で両親を失った。「魔王」は兄が主人公、弟は「魔王」から5年後、弟の潤也と妻の詩織が主人公になる。

「魔王」
安藤(兄)は、心に念じた言葉を他人にいわせる不思議な能力があることに気づく。そのころ、ひとりの若手政治家が人々の心をひきつけていた。だが安藤はなにかしら恐ろしさを感じる。

「呼吸」
弟の潤也は詩織と結婚し、東京から仙台に越し、環境調査をする会社につとめている。夫婦は、テレビや新聞など、メディアを遠ざけて暮らしているため、社会事情に疎くなっている。だが、世間では、憲法改正の国民投票が近づいていた。

 とくに「魔王」では、集団心理の力の大きさ、恐ろしさが描かれている。

 たとえば、学校でクラス対抗の大繩大会があり練習がはじまる。はじめは数人が参加する。そのうちひとりずつ参加者が増えてくる。クラスのほとんどが楽しそうに、がんばって練習しはじめると、しだいにサボるのは許されない、という雰囲気がでてくる。とうとう、縄跳びなんかするもんか、とさめていた子も仲間になり、クラスが一致団結し、大会の当日に全員で臨む。すばらしい!

 ところが、大会では隣のクラスに僅差で負けてしまう。悔しい! 翌日、隣のクラスはズルをしたという噂がどこでささやかれる。本当のことかもしれない。誰かが冗談でいった一言からはじまった噂かもしれない。出所がわからないまま、噂はひろがる。隣のクラスへの敵対心が生まれ、隣のクラスのやつらはみなずるい、許せない! という意識が生まれる。

 A子には隣のクラスに親友がいる。その子にとって今も大切な友だちだ。今までどおりにいっしょに下校する。隣のずるいやつと親しくするのは許せない! クラスでは、A子へのシカトがはじまる。それ以来、だれも、隣のクラスの子と親しくするものはない。クラスは団結している。恐ろしい!

 わたしの勝手な作り話で、たとえが長くなってしまった。
 だが、こんなことを読み手につらつらと考えさせるのが、この作品なのだ。兄のほうの主人公は、いつも「考えろ、マクガイバー」といって、考えるのが好きなのだが、この本を読みながら主人公とともに考えていると、彼の思考癖がうつり、読後も考えつづけてしまう。
 さらに、なんとなく未完のまま、不完全燃焼で終わっている感がある(息子もすごく面白かったけれど、ラストが決まっていないと感想を述べていた)のも、読後の考えつづけてしまうゆえんだろう。「考えろ、マクガイバー」なのだ。

 初出は、1作目が2004年12月、2作目が2005年7月(2作とも雑誌「エソラ」)と近年に書かれ、現代の世相と、ええっ、そんなこと書いていいの? というぐらいはっきりシンクロしている。
 単行本のあとがきには、「小説の中のできごとやニュースは全部、作者の想像で作られたものです。読んだ人が真に受けて、失敗などされなければいいな、と思っております」と書かれており、確かに現実と混同しそうと笑えた。
 社会音痴のわたしは、もしかしたら、かなり混同しているかもしれない。「呼吸」では、国民投票法(この作品が書かれたときは定まってなかったようだ)、憲法改正について、勉強させてもらったし、いま行われている政治のからくりがちょこっと見えたような気がした。

 今が旬の作品だ。しかも賞味期限が近づいている。いま読み、読後、自分で考え続けたい。

 さて、話はまた集団心理に戻るが、KYという言葉が生まれてくること事態、危険な傾向かもしれない。ところで、KYには2種類ある。まったく純正のKYと、空気を読み取っているくせに知らんふりをするKYと。こんな、理屈っぽいことを考えてしまうのも、この作品の影響で、実は、すでに作者の渦巻きにまきこまれているのかもしれない。

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