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2007年6月29日 (金)

昔話絵本を考える その2

赤羽末吉さんの『私の絵本ろん』(平凡社ライブラリー)を読み始めている。

 そのなかの「ストーリー・テリングと絵本」で、松岡享子さんの『昔話を絵本にすること』について、批評しながら、昔話と絵本について考察している章があり、興味深く読んだ。『昔話を絵本にすること』は、いまは日本エディタースクール出版部から新装版『昔話絵本を考える』となって出版されており、わたしは少し前に読んで、記憶が新しいが、おぼつかないところもあり、またひろい読みしなおした。

 『昔話絵本を考える』は、ホフマンの『七わのからす』(福音館書店)を題材にとり、昔話を絵本にして絵で見て耳で聴いたときと、語りだけから耳で聴いたときの違いを、細かく区切って、ていねいに検証、考察している。絵本と素語りの比較により、昔話の特徴が、くっきりと浮かび上がってくる。初めて読んだとき、ひとつひとつにわたしは、たいへん感心し、納得した。
 
 赤羽さんは、画家の立場から、同じ『七わのカラス』を分析していき、松岡さんに同調したり、異論を唱えたりする。ときにはホフマンにかわって画家として弁明しているように思われるところがあって、おもしろい。

 昔話を視覚化するとき、問題となってくるのは、画家のイメージがはいってくることだろう。その利点として、赤羽さんは、経験の浅い幼い子がイメージをつくる手助けをすることと、「イメージを一つに固定化するマイナス面もあるが、反面、子どもたちに同一のイメージを共有させる」ことをあげられている。『私の絵本ろん』の別の章には『スーホーの白い馬』の舞台であるモンゴルが、日本と全く風土がちがうことが書かれている。たしかに、あの絵がなければ、モンゴルの広大な大地とともにおはなしは伝わってこないだろう。

 イメージという点に対して、松岡さんは、昔話派本の絵は、イメージできない物語の部分を絵にすることに価値を認めながらも、昔話から子どもは、そのときのその子にとって意味のあるメッセージをひきだしてくることができる、だから、「昔話は、子ども自身の心の要求に合ったイメージにしてはじめて意味があることにならないでしょうか」と書かれている。

 それなら、語り手のイメージはどうだろう。語り手によって、おはなしのイメージはずいぶん違ってくる。また同じ語り手でも、そのときの心のありようによって、イメージが変わってくるのは、語り始めてまた数年のわたしですら、わかってきた。そして、そこのところが昔話を語る楽しみにもなってきたのだが……。
 さらに、外国の昔話をかたるとき、おそらく風景は、本来のものとちがうイメージをえがいているだろう。 
 だから、語りは淡々と、といわれるのも、うなずける。だが、あまりに淡々としていると、おもしろくないようにも思うが、それは、語り手の側の考えだろうか。

 イメージは、なにが正しくて、なにが正しくないかというものではないので、判断に迷う。昔話絵本を選ぶ目を養いたいと思う。
 いま、読みたいのは、『昔話の魔力』(ブルーノ・ベッテルハイム著 評論社)だ。実は、一度読みかけて挫折している。再挑戦してみよう。

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